おととい、タイ経由で日本からラオスに帰ってきた。
そして1年前の今日は、ラオスへ赴任する日。
荷物の準備をしながら、いざ出発となると、わくわくより不安が少し大きかったなあというのを思い出す。
今日からはどの日もどの季節もぜんぶ、「2度め」。もうラオスでの1月16日は、やってこないのだ。
約1年ぶりの日本は、思ったほど新鮮さや懐かしさというものはなくて、それはやっぱり20年以上も住み続けてきた場所だから、たった1年くらい離れていたくらいじゃ新鮮な気持ちにならないのかななんて思って。
でも、とにかく日本は選択肢が多い。情報も多い。
その中で、すごく渇望していた、「アートにふれること」ができた。
ラオスも、美しいものはたくさんある。ラオスにしかない自然、風景、手仕事たち。
でも人間、おなじものばかりを見ていると、どうしても感性が薄れてしまう。悲しいことに、その美しさが時には認識できなくなってしまう。
どんどん自分の感度が鈍っていくのがわかった。
インプットもアウトプットもできない、そんな状況。
だから、まったくちがう、美しいものが見たかった。そのひとつがアートだった。
先の記事で紹介した山口絵理子さんの言葉を借りるなら「作家や画家が力をこめて創ったものを見ていると、その力を分けてもらえるように感じる」。
そこに描かれているもの、創りだされているもの、それはどんな場所で、周りにどんな人がいて、それはどんな時代で、その日はどんな天気で、そしてどんな人がつくったのか、そういうことをひとつひとつの作品を見ながら考えているだけで、その場所から違う世界へ行ったような気持ちになる。作品の数だけいろんな世界に行ける気がして。それこそが、アートの力を分けてもらっているということだと感じる。
アートに触れると、”既にそこにあるもの”も美しいものなんだと気づく。
これは、大竹伸朗さんの著書の名前でもある。感性を鋭くしていれば、いつも周りにあるものがおもしろく、うつくしく見えたりするのだ。私がラオス生活で足りなかったのは、そういう感性だった。
日本は常に新しいものがある。別に美術館でなくても、商業施設でも、街を歩いているだけでも、常に新しいもの、アーティスティックなものに触れられる。
都会にいておもしろいのはそういうところ。
受動的になっていても、新しい情報が入ってくる。
私はそんな環境が好きだったので、ラオスにいて物足りないのはそういうところだった。たった短い期間でもその隙間を埋めることができたから、そしてラオスに来る前の自分の気持ちを少し思い出せたから。
今日から2年めのラオス生活、毎日を愛おしく、美しい瞬間を見逃さないようにちゃんと鋭い感性を持って、過ごしていけることを願って。